山代悟+西澤高男インタビュー

interviewer 馬場未織

 
山代悟+西澤高男インタビュー
interviewer 馬場未織

 

『ビルディングランドスケープ』は、山代悟氏と西澤高男氏が2002年に立ち上げた設計事務所です。共同主宰という形でありながらそれぞれ独自の仕事も進めるというスタイルで、まちづくりから構法開発に至るまで、建築家の職能を目いっぱい押し広げた仕事を展開しています。

事務所を主宰する二人が、個々に育ててきた想いは、何か

また、ビルディングランドスケープとして共につくりあげてきた価値観は、何か。

そして、これからビルディングランドスケープはどこへ向かうのか。

学生時代から彼らを知る馬場が話を伺い、その本質に迫ります。


 

建築との出会い

馬場:山代さん、西澤さん、建築を志すことになったきっかけを教えてください。


 

山代:自分は小さい頃、体が弱かったこともあり、もともとは医者を志していましたが、途中で建築を目指し直したという経緯があります。受験勉強のために通っていた出雲市立図書館で、菊竹清訓さんの建築作品集の中に『出雲大社庁の舎』を見つけ、「“建築”というのは都会にあるだけではなく、いろいろなところにありうるものなんだ」と知ったのです。島根に暮らす自分の身のまわりには“建築家”を名乗る人はいなかったのですが、これをきっかけに “建築家”を本格的に志すようになりました。
そういえば以前から、美術には興味があり、「芸術家は生きている間は一枚も絵が売れなかった」という話などに触れることもありました。それに比べると、建築家は生きているうちにお金がもらえるんだなあ!とも思ったりしてね(笑)。


 

西澤:自分はこどもの頃、団地で暮らしていたのですが、新聞の折り込み広告にある住宅図面を見て「どんな空間かなあ」と想像するのが好きでした。小学校4年生くらいになると、自分だけで電車に乗って旅行に行くようになりました。行く先々にある風景やまち、建築を見るのが、本当に楽しくて。 高校時代は、男子しかいない学校の図書館には行く気がせず(笑)、よく飯田橋周辺の図書館に繰り出して勉強していたのですが、ある時、暇つぶしにめくっていた建築雑誌に目を奪われました。「これは、かっこいいぞ」と。受験をするなら建築学科にしよう、と心を定めました。


 

設計事務所での所員時代

馬場:その後は、それぞれ設計事務所に就職する道を選んだわけですね。山代さんは、1995年に槇総合計画事務所へ、と。

山代:大学で師事していた大野秀敏さんから「槇文彦さんの事務所を受けてみたらどうか」とアドバイスをもらいました。槇さんは当時、すでに66歳くらいでしたから、もう少し若い建築家のもとで働く方がいいかなという気持ちも、ないとは言えなかった。
ただ改めて考えてみると、学生の自分がよく訪れていた『ヒルサイドテラス』や『スパイラル』などの休憩スポットは、どれも槇さんの設計だったんですね。あえて、都市の中で無料で休憩できる場所をつくる建築家から、学ぶべきことがたくさんあるのではないかと思いました。
槇事務所には7年間在籍しました。プロポーザルから竣工まで関わったのは『福島県男女共生センター』という施設です。その他、『テレビ朝日』や『国立国語研究所』などの設計などを手がけ、2002年に独立しました。独立前に「小さな美術館を担当しないか」と誘ってもらった時には、ぐらっときましたけどね(笑)。

馬場:同じく1995年に、西澤さんは長谷川逸子・建築計画工房へ。

西澤:自分は修士2年の夏休みに、大学の先輩の紹介でずっと長谷川さんの事務所でアルバイトをしていました。当時は『カーディフ・ベイ・オペラハウス』設計コンペの2次審査まで進んでいて、さまざまな国の人たちが入り交じって作業をしている状態でした。提出前夜、深夜に長谷川さんと図面を貼る作業をしていた時に「ところで西澤くん、就職はどうするの?」という話になったんです。長谷川事務所は、所長とスタッフのやりとりが旺盛でした。彼女がずばっと言う意見、直感的に下す判断は常に的を射たもので、この人のもとで働きたいと思いました。
所員としては4年弱ほど在籍し、その後もプロジェクト単位でさまざまな仕事を任されていました。展覧会の展示計画一式であったり、新潟、長岡、そしてイギリスに赴いてオペラの映像装置をつくったり、ベネチアビエンナーレでは長谷川逸子ブースの設営を任せられたり。建築の域を逸脱した仕事もずいぶんありましたね(笑)。


 

コラボレーションのメリットを最大限に生かす

馬場:事務所勤務をしていたお二人ですが、もっとも仕事の忙しい20代のこの時期にも、メディアアートユニットResponsive Environmentのメンバーとして一緒に課外活動をしていましたね。お二人がコラボレーションしはじめたのは、いつですか?

山代:Responsive Environmentはわれわれが大学院生だった1993年に活動開始し、その時からの付き合いです。建築家、音楽家、ダンサーらと共に都市の中にインスタレーション空間をつくったり、パフォーマンスの公演をしたりといった創作活動をしていました。

馬場:この流れから、一緒に設計事務所を始めることになったのですか?

山代:当初は高田馬場で短期間、事務所空間を共有する形でいましたが、自分が「一緒に仕事をしない?」と提案して、2002年に共同主宰の事務所をつくることになりました。

馬場:山代さんと西澤さんは、同じ事務所にいながらそれぞれの仕事を持っているという印象がありますが。

西澤:ビルディングランドスケープは、“共同のプラットフォーム”あるいは“レーベル”のようなものだと思っています。全部を共同設計するといった建築家ユニットではなく、個人で引き受けているプロジェクトもあるし、助けが必要であれば声を掛け合うし、という形で緩やかに場を共有している状態です。
自分の場合は、他の設計事務所とコラボする仕事もあるのですが、そうした場合でもビルディングランドスケープというレーベルの価値観やクオリティを維持することを意識しています。

山代:最近手がけた『みやむら動物病院』では、西澤は設計デザインをし、山代が構法開発をしたLVLの準耐火構造を使用する、といった形で互いが作品に関わっています。一方が構造開発、一方が設計、といったパートナーシップがあることで、手柄や縄張り意識を持たずに作品づくりに注力できるわけです。
学生時代から続く長年に渡るコラボレーションの経験から感じるのは、「どこまでが誰の手柄か」といったことを考え始めると、コラボレーションは途端につまらなくなる、ということ。それを乗り越えられる協働の形ができていると思います。

馬場:確かに、コラボレーションは最大公約数でものごとが決まる方向に陥りがちですが、それを克服する方法はありますか?

西澤:Responsive Environmentのミーティングでは、「アイディアは、断片ではなく全体像をもった完結されたものとして出す」というルールがありました。その中からベストなアイディアを選んだら、仮に自分のアイディアでなくても突き詰めていきます。その後に、得意分野ごとに分担するのです。
ビルディングランドスケープでも、こうした意思決定のプロセスを経ることが多いです。


 

建築をつくることは、時間をつくること

馬場:ユニットでありながら自由にふるまえるこの事務所において、これから手がけていきたい仕事はありますか? 

西澤:自分は、「この場所にとって必要なものは何か?」という大前提から考え、枠組みからつくっていく仕事を増やしていきたいですね。
2016年のSDレビューに入選した『瀬戸内の海の駅舎』は、何もない海際の場所に、誰から発注されたわけでもない建築がつくられるまでに7年を要しました。その間、何度も島のリサーチをし、自治体と一緒に「何がつくられるべきか」をじっくり考え、意思決定を重ねていきました。
通常は、依頼に基づいて建築を設計する、というのが建築家の仕事です。でも実は、それよりも前にある「欲しい未来の形」を探すプロセスこそが、大事なのだと思っています。

山代:まったく同感。自分は、技術開発の段階から携われるような建築の仕事に興味があります。今関わっているのは「都市木造」の開発です。耐火性があり、耐震性があり、かつ高層な木造建築をまちに増やしていきたいという野望があり、木の勉強から始めました。
というのも、今の時代は、既製品もその組み合わせも多様で、それらによって建築ができてしまいます。それが、自分には物足りない。「この材料で、どうやって建築がつくれるだろう」と普段の設計を揺さぶってくれるような経験を重ねていきたいのです。
また、いろいろなアイディアや技術が、自ら直接手がける設計範囲を超えて社会に影響を及ぼすようになることを望んでいます。例えば、構造材として表に出ることのなかったLVLの積層面が実は美しい、と注目したことにより、最近では「LVLの積層面を見せる」という手法が他でも見られるようになりました。これは嬉しいですね。

馬場:興味の方向性は違いますが、「知見をオープンにする」というスタンスは、とてもよく似ていますよね。命をかけて生み出したアイディアを世界に振る舞ってしまうことに、抵抗はないですか?

山代:うーん、実は、「自分の名前を売りたい」といったことよりもっと欲の深いところを狙っているかもしれません(笑)。世の中にインパクトを与えたい、とか、歴史に関わりたい、とか。社名や個人名が歴史に残るかどうかは分からないけれど、つくり方はいつの間にか残っていた、ということになれば痺れますねえ。

西澤:まちづくりなどでワークショップをする動機も、ある意味似ている気がします。設計者は、自分のつくったものを引き渡した後まで見続けることはできない。でも、まちの中でその価値観を共有できていれば、きっともっと良くなってゆきます。
つまり、自分たちの手を離れても、脈々と引き継がれるものをつくることを目指している、ということです。

馬場:なるほど。自分という存在を超えたところに、視線が向けられている気がします。到達するのが難しそうな目標ですが。

山代:いやまさに。以前、自分は一体どんな仕事をしたいだろうかと考えてみたことがあるのですが、「難しい仕事がしたいんだな」と分かったのです(笑)。難しい課題に、とことん付き合っていきたい、と。

馬場:ビルディングランドスケープなら難しい仕事でも引き受けてくれる、となりそうです(笑)。

山代:そればかりでも大変ですが(笑)。

西澤:たとえ難しい課題に直面しても、時間をかけてお互いをよく知り、言語化しにくいところまで共有する。建築をつくるということは、商品を売って終わるのとは違い、人間として付き合うことと同義です。それが、設計のプロセスを大事にする所以でもありますね。

山代:建築は、建てられたあと長年に渡ってそこにあり続けるものですからね。つまり、自分たちが意志して設計したものがそのまま、彼らの暮らしの何十年になってくる。設計段階だけでなく、その空間を彼らが使うところまで入れると、何十年もの付き合いをしていくことになります。
長く付き合えるというのは、嬉しいことです。

馬場:山代さん、西澤さん、ありがとうございました。

 

インタビュー後記
山代氏、西澤氏とは20年来の知り合いですが、今回話を伺うことになり、改めて彼らの普段のふるまいの背景を理解しました。山代氏は、他者に対する理解の深さにより、「こちらの方向ではないか」とひとたび発せられることばや形には圧倒的な確からしさがあります。西澤氏は、人や事象に宿る“艶”を誰よりも敏感に受け入れ、ことばではあらわし難い機微をもって作品をつくりだします。両氏の率いるビルディングランドスケープが「建築設計事務所」の職域を超えた多様なプロジェクトを進められているのは、断定力よりも想像力、一発力よりも持続力を強みとしているからこそだと感じています。
わたしは、過去にはResponsive Environment、現在はNPO法人南房総リパブリックにおいて両氏と活動を共にする中で、他者と未来を共有する楽しさ、心強さを知りました。自分たちの命の範囲には収まりきらないような先々の未来に、希望を宿していく。そんな仕事を、彼らは今後も手掛けていくのだと思います。


 

馬場未織(ライター/NPO法人南房総リパブリック理事長)
1973年東京都生まれ。日本女子大学大学院修了後、設計事務所勤務を経てライターへ。2007年より「平日は東京、週末は南房総の里山で暮らす」という二地域居住を家族で実践し、2011年に農家や建築家、教育関係者、造園家、ウェブデザイナー、市役所公務員らとNPO法人南房総リパブリック設立。著書に『週末は田舎暮らし~ゼロからはじめた「二地域居住」奮闘記~』(ダイヤモンド社)、『建築女子が聞く 住まいの金融と税制』(学芸出版社)など。